誰かを愛することは、神さまの顔を見れたようなもの。

『成幸の法則2021』10.16
Vol.1906
誰かを愛することは、神さまの顔を見れたようなもの。
<レ・ミゼラブル>
「愛されること」と、「愛すること」はどちらが大切なのでしょう。
まだまだ幼い子どもの頃、両親の愛をたくさん受けて育った人は、「愛されること」と、「愛すること」の区別が魂レベルでつくそうです。
虐待を受けるなど特別な事情がなくても、例えば父親が仕事ばかりで家庭を二の次にしてしまうと、母親と父親の愛のバランスが崩れ、いつまでも「求める愛」になってしまいます。
その「求める愛」は、所有欲や独占欲、自己顕示欲などと重なり、凡そ「本質的な愛」とは異質なものに姿を変えてしまいます。
お氣づきのことと思いますが、「本質的な愛」とは、自ら愛することです。
即ち「与える愛」。
それは、相手を幸せにしたいと思うこと。
そして、それは、相手を成長させることでもあります。
人間が本当に幸せになるには成長が必要です。
相手の成長のために、自らのエネルギーを与えることは、「愛」そのものです。
それはとても大事な愛の幸動です。
相手を幸せにしたいと思うのは当たり前のことだと思われるかもしれません。
しかし、これには、「自分がどう思われようと」という条件があるのです。
自分が認められたいから、好かれたいから、相手に何かをしてあげるのではは、本質的な愛とはいえません。
より難しいのは、相手に良くなってもらうために、自分が嫌われてでも「厳しさ」を持つことができるか、ということなのです。
現代では、「厳しさ」を誠実に伝える機会が限りなく少なくなっています。
愛とは「慈しみ」と「厳しさ」の両極が融合してこそ無限に広がります。
この宇宙には愛が満ち満ちているそうです。
その愛を感じないまま時間を費やすのは、まさに浪費です。
笑顔で「愛してます」と心から言える仲間を増やしましょう。
人生の価値は、愛する人と育む愛の大きさで決まります。
照れることなく、臆することなく、自らの愛を与えまくりまくるのです。
成幸コンシェルジュ
ひとみ幸お

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